私が初めて、被災地を訪れたのは 、震災直後の3月中旬、宮城県亘理町を訪れました。
到着して目に映ったのはガレキと悪臭でした。勿論、訪問前からわかっていた事、
早速、亘理町の記念体育館へ
そこには、全国からボランティア参加者が集まっていました。
現地の被災者でありながら復興支援する人たちも多かったです。
そこで感じたのは、ねぎらいの言葉として「かんばってください!」なんて
とても言えるような感じではありませんでした。
それは、既にどこからどう見ても、皆さん120%頑張っていたからです。
我々が頂いた支援内容は、鈴木さんという老夫婦宅の修繕改修作業でした、
車にボランティアセンターから借りた道具を積んで早速向かいました。
東京から出発する際に、迷惑だけは現地にかけたくない
自分達ができる事はなにか?
頭を悩ませたことも幾度もありました。
しかし頂いた作業を精いっぱいこなし
全力でやろう!ってみんなで車の中で確認し合いました。
鈴木さん宅は、海から2キロほど離れた場所
そこは、地面から1m80センチ位の水位の津波が
押し寄せたみたいです。
鈴木さん宅の周りの民家は全壊だったり半壊だったり様々でしたが
到着した鈴木さん宅は、ヘドロと家具でグチャグチャになっていました。
でも、家の原形はそのままでした。
鈴木さん宅が無事だったのは、家の周りに沢山の木を植えていたから
そこに、流されたトラクターや家具が引っ掛かっていて
鈴木さん宅を守っていたのです。
本当に全てがドロだらけでした。
畳は、ヘドロを吸い6人がかりでようやく1畳持てるのがやっとでした。
老夫婦にはとてもではないができない作業でした。
そんな中奥様は、我々が運び出したヘドロだらけのお皿やコップを
1つ1つ確認し、使えそうなものと分けていました。
水道も電気も通じていないので、ヘドロだらけのままでした・・・・・。
きっと私だったら捨ててる・・・・・
正直そう思いました。
本当に物を大切にしている、当たり前のように・・・・・
そんな奥さんの後姿を見て、何も思わなかった参加者はいませんでした。
一通り、ヘドロと家具を外に出し一段落
お昼にしようとお弁当を開けていたら
お茶などを奥さんがくれました。勿論、丁寧にお断りしたんですが
飲んでくれって
旦那さんは、どこからかくんできた水で手を洗えと・・・・
こんなにヒドイ思いされているのに
我々なんかに気を使ってくれる
水だって飲料水だってこの辺ではまだ行き届いていないのに・・・・
ボランティアの鉄則は、全て自分達で用意
出発前にリュックに詰めたおにぎりなどをほおばりました。
こんなに美味しいおにぎりは初めてでした。
なんかね、食べながら、勝手に涙が出てくるんです。
悲しい訳じゃない・・・・
嬉しい訳でもない・・・・
本当に勝手に沢山沢山溢れてきました・・・・
今でも理由は分かりません。
午後は庭のガレキの撤去
倒れかかった大きな塀を撤去
ドブさらいなどをこなし近所の方々にガソリンを配布
この国はこの震災を乗り越えてきっと強くなる
そう強く感じ またくることを誓いました。
最後に鈴木さんは言いました
『ガソリンも食料もまだまだ十分じゃないけれど手に入るようになった
この町には若い人がいないんだよ、だから本当に助かった おもてなしを
したいけれど今はできない、だけどまた来てほしい、ここにいるから
本当に ありがとうね』
・・・・・・ この日の帰り道に誓いました。
この被災地にひまわりのような笑顔が戻るその日まで、自分たちができる
復興支援を全力でやろう!そう決めました。
震災から1年半を過ぎた今、復興支援のボランティアの手が少なくなり
風化してしまいそうな胸騒ぎがしました。
そこで、私達、普段から手を取り合って復興支援に向かってる企業さん達と
『ライフサポート復興を支援する会』を設立しました。
もっともっと多くの企業様、個人様に被災地の現状及び、ボランティアの参加を
呼びかけていこうと思っております。
若輩者ではございますが何卒よろしくお願い申し上げます。
ライフサポート復興を支援する会 理事長 大関真悟